灰色の景色が、一斉に崩れ出す。
轟音を立てて落下する建造物の廃材、古ぼけた窓ガラスの破片、その中に配置されていた椅子や机その他家具。
全てが滝のように崩れ、そして落ちる。
その滝壺の中心に、彼はいた。
すぐ傍に人を押し潰せそうなコンクリートの塊が落ちてきても慌てる事無く、
そこら中を人を切り刻めそうなガラス片が雨のように降っていても恐れる事無く、
何をするとも無く、ただ佇んでいた。
重力に従って崩れ落ちる灰色は、地に埃を巻き上げ、空を曇らせ、蜃気楼のように"彼女"に幻影を見せた。
荒れ狂う大海原を堤防から望むように、その惨事が起きている場所から数歩離れて彼女は立ち尽くしていた。
目の前の光景を、信じたくなかった。
手を胸の前に硬く握り締めて、目を幻の前に硬く閉じて。
大半が崩れ落ちた。
今は、残った廃墟が断続的にその体を削り落としている。
舞い上がる砂埃は途切れる事無く周囲を隠し、地面は灰色に覆われていた。
塊は巨大なモノから小粒なモノまで、全てを押し潰すかのように地面に埋まっている。
やがて、その埃のベールの内側に小さな変化が訪れる。
呻き声。
痛みを堪えて、その身体を動かしている。
その動きと共に苦痛に満ちた唸りを上げ、
立った。
彼はその足を地に突き立て、すっと息を吐く。
無理に起動させた身体は当然使えるような代物ではなく、病院で幾年か入院せねばならないほどの重傷。
ただそれは外部から見ればの話で、実際にはそれ以上に悲惨。
生きている、それ自体が奇跡なのに。
僅かな生命力を搾り出して、彼は動いていた。
そして、幾度か息を吸い、吐き出した後、
物理的な沈黙とは違う静けさが、彼とその一帯を覆う。
まわりを深紅に染めた口で、
彼は言った。
「やめろ」
意志という鎧をつけた騎士が右手に握り締めた槍のように、その言葉は蜃気楼を引き裂いた。
彼が発した、初めての意志だった。
Episode.1
初めまして。
僕の名前は、春日部 涼(かすかべ りょう)。
誕生日は二月九日で、十五歳です。この中学校は八校目で、前よりもっと楽しめると良いなと思います。
三年二組の皆さん、これから宜しくお願いします。
春日部 涼、中肉中背、端正な顔つきだがかけた眼鏡の奥から覗く鋭い目付きが少し近寄り難い雰囲気を出している黒髪の少年。
彼は今、教室の黒板前で軽く頭を下げている。
その頭の先には、約三十人程の生徒。このクラスの男女は丁度半数ほどに分けられているらしい。男、女、男といった席順で縦に並んでいる。
そして、隣にはこのクラスの先生、今はもう珍種となりかけている男熱血先生である、田沼。体育教師の典型的な体格(つまりがっしりと筋肉で固められている)で刈り上げ、目はいつもやる気に輝いている。
春日部は頭を上げると、転校するたびに毎度繰り返してきた作業で先生のほうを見る。これで良いか、という確認である。
田沼は頷くと、教室を軽く見渡す。
「あー、春日部はーっと、そこ、瑠月の隣、空いてんだろ。そこに座れ」
また、か。転校先の席はほぼ確実に教室の角になる。
春日部はだるそうにこちらを見てくる生徒達の視線を軽く流しながら一番奥まで向かい、窓側の空席に腰を下ろす。
日差しが淡く差し込む窓に軽く寄り掛かると、席に座ったのを確認した田沼が、
「じゃ、春日部をよろしくなぁ皆」
皆がパラパラと拍手を送る中、春日部は白けた目で宙を眺める。
それからは早い。
出席を取り、日直による日程の棒読み、それから一時間目の数学の係のテストの知らせ。
そして、先生の挨拶とか何やらが終わり、何時の間にやら休み時間。
生真面目な生徒は、ここで教科書やら筆記用具やらを机に並べておくのだが、
「・・・・・・」
見渡す限りそんな生徒はいないみたいだ。
春日部は、両手で顔を支えながらやはり変わらず宙を見つめる。
何も考えない。
何も見ない。
何も聞かない。
自分を無に溶かした時に感じる、あの虚無感が春日部は好きだった。
空気と同化した自分。
日差しが視線をぼやかし、そして、
「・・・・・・」
透明感ある宙が白に限りなく近い肌色に染まる。
それは、ブンブンと大きな振動を繰り返し、やがて止まる。
「大丈夫、君?」
明るい調子の声だった。高さからして女子だろう。
と、聴覚の情報から推理してみる。
「何か意識飛んでるよぉ?」
間延びしているような、のんびりしているような声。性格は声に似るとどこかで聞いた。
本当なのだろうか。
「えっと、ハルー?」
その呼び声に、春日部はようやく"眉を僅かに寄せる"という反応をする。
あ、動いた。と、声。
「眉動かしたついでに目の焦点も合わせてよー」
「なんだ、ハルって」
春日部が急に目を声の主に向ける。普通に見てるだけなのだが、鋭い目のせいで少し怒っているように見えなくも無い。
声の主も例外ではなく、少し怯えたように身を引いている。
「え、えっと・・・・・・ほら、春日部だから、ハル。というより、やっと見たっ」
「・・・・・・お前、誰だ?」
春日部が聞くと同時に、答える側は少し傷ついた表情を見せる。
「覚えてくれてないんだ・・・・・・」
「まず名前を聞いてない」
「でも、先生がさっき私の隣に座れって言ったじゃん・・・・・・」
ん、と春日部は一瞬黙り、
「卯月か」
「違ーうっ、瑠月、瑠月 光(るづき ひかり)です」
「あぁ・・・・・・だっけ?」
「そうだよ、ハル」
春日部は瑠月と名乗る少女を見つめる。背はそれ程、自分より頭一つ分小さいくらいだろうか。茶色いショートヘアで、左のこめかみ付近に黒ピンを二本。
そして、特徴といえば目が大きいところか。基本的に自信が無いのか、不安そうにあちらこちらに視線が移っている。
まぁ、普通に可愛い。のだが、
「馴れ馴れしい」
春日部は容赦なく瑠月を一蹴する。
何故、だろう。
何故コイツは、こう絡んでくるのだろうか。
「ハルー。数学のテストどうだった?」
「・・・・・・・」
「私最悪。半分いくかなぁ」
知るか。
「で、どうだった?」
「・・・・・・まぁまぁ」
瑠月の執拗な攻め立てに諦めて、春日部は面倒そうに答える。何を見てるでもなく視線は窓の外に飛ばし、少し眩しそうに目を細めている。
一時間目終了後、隣の瑠月は早速春日部の机に、つまりは春日部に近づいてきた。
「むぅ、冷たい」
「馴れ馴れしい」
一言で済まされる応答に、瑠月は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「大分話してくれるようになってきたね」
春日部は耳元に飛ぶ虫を見るかのように瑠月の方を振り向き、何も言わずに視線を戻す。
朝も中盤に差し掛かり、日差しも徐々に強くなる。
窓から見える光景は、何の変哲も無い校舎。今年で創立五十年を迎えるらしく、壁も雨風に削られ脆くなっている。
「あそこは第三校舎だよ。理科室とか、美術室とか・・・・・・二階には図書室とか」
要求してもいないのに瑠月は勝手に説明を始める。
「で、ここは第二。三年のクラスが二階に五つ、てか五組までしかないから全部か」
「そして右隣にあるのが第一で、多目的室、放送室、事務室、職員室が二階、一階は二年生のクラスが全部。一年生は第四の一階で二階は木工室や金工室、第二美術室、第二図書室。第三と第二、第二と第一は渡り廊下で繋がっているけど、第四は一階からしか行くことが出来ない。体育館やプールは第四に隣接してある」
唐突に春日部が無機質な声でずらずらと並べ、それを終えると椅子から静かに立ち上がる。
「う、え?何で知ってるの?というよりどこ行くのぉ?」
瑠月は驚いて目を見張る。と、その横を春日部が無言で通り過ぎ、追いすがる様に声をかける。
「図書室」
「第一、第二のどっち?・・・・・・じゃなくて、次の授業まで後一分しかないんだけど!」
「・・・・・・」
春日部は扉の前で一度立ち止まり、結局外へ出て行く。
「何だ?」
瑠月は首を傾げながら呟く。
まぁ、いっか。と自分の席に戻ってようやく、
「あれ、皆いない」
教室がほぼ空になっていることに気づく。
一瞬静止した後、瑠月は謎を解き明かそうと目を所々にやり、前の黒板で止まる。
"次の国語は、第一図書室で行います。 by国語係"
白チョークで黒板いっぱいに書かれていた。
今度は数秒停止する。
「・・・・・・ハル、ひどい」
一言呟くと、教室の扉へダッシュした。
テンポの速い足音が廊下に響く。
「折角、ちゃんと話してくれるようになったと思ったら・・・・・・」
ブツブツと文句を垂れる瑠月は、隣で黙っている春日部を覗き見る。
相変わらず無表情で、目は遠くを見ているようだ。
「ハルは思いやりに欠けてるよっ」
放課後、ホームルームを終えそそくさと皆が席を立つ中、春日部は机に肘、手のひらに顔を乗せて寄りかかっていた。
「帰らないのか」
あの時から休み無しに言い続けている瑠月に、春日部は呆れたような視線を送る。
「全く自分が気づいてたんだったら言ってくれてもいいのに・・・・・・って、え?」
「そんなコトを言ってても、僕の態度は変わらない」
いつも通り無機質な、感情のこもらない声だった。
春日部は続ける。
「それに、僕は君の問いかけには答えた」
「でも・・・・・・」
瑠月は何かを言いたそうに顔を上げ、また俯く。
ようやく黙り込んだ瑠月を傍に、
「帰る」
一言呟き、春日部は席を立つ。
その影は、昼過ぎの日差しで輪郭をあらわにしている。
瑠月は遠ざかるそれを目で追い、やがて足を動かし始める。
黙々と歩き続ける。
校門から出た二つの影は、同時に左に曲がる。
そこに続く一本の道。脇には住宅が立ち並び、そのせいで日が届かず陰っている。
一人は前を見つめて、一人は俯き加減で、それぞれ同じ歩幅で歩く。
やがて、一人が立ち止まる。
「ハル、ごめん」
もう一人は、立ち止まらずに首だけ振り向く。
「何も悪いことをされた覚えは無い」
立ち止まった一人は、自分の足元を見る。
そこに、影は無かった。
そして、無言で先に進む一人を追いかける。
「瑠月の家は、こっちか」
横に並んだ途端、無表情に一人が問う。
「うぅん。でも・・・・・・、いつも行ってるレコード屋さんがこっち」
「なら、行くか」
うん、と頷いた一人は弾むように歩き出す。
影に影を飲み込まれた二人は、続く一本道を同じペースで進む。
長く続いた一本道は、やがて突き当たる。
そこは狭い小路で、一本道に垂直に横に伸びていた。
そして、三叉路の分岐点に瑠月いきつけのレコード屋があった。
両側の高い事務ビルに挟まれて、そのこじんまりとした店はより縮んで見える。二階建ての様々なジャンルを扱う店らしく、店頭には均一性のないモノが所狭しと並べられていた。
「ここだよ。私はよくクラシックを借りるの」
瑠月には、要求されてないことを喋る性質があるらしい、と春日部は彼女を見る。
「でも、今日はジャズな気分かなぁ」
「ジャズは僕も好きだ」
春日部はそう言って前を指差した。
二人は目の前に並ぶジャケットを見ながら話す。
「それにしても意外だなぁ。ハルが音楽に興味があるなんて。しかもジャズ」
「ジャズのどこに意外性がある?」
春日部が直ぐに返すと、んー、と瑠月は唸りながら考え込んだ。
「これ、買うかな」
その横で春日部は一枚のジャケットを取り出す。表紙にはアルトサックスを鳴らす男性。ジャズだった。
瑠月はそれを神妙な顔で見つめる。そして奥のレジに向かう春日部の背中を見ながら、
「やっぱり意外」
小さく首を傾げる。
と、店の奥からする、ありがとうございまーす、という間延びした店員の声に、
「あ、そうだ。私も買うつもりだったんだ」
瑠月は思い出したように手を叩き、店頭の商品を眺める。
「じゃあ、明日」
ジャケットを探す瑠月の横を買い物を終えた春日部が素通りしていく。
「え、待ってよぉ」
やっぱりひどい、と嘆く瑠月に、
「なぜ」
春日部は本当に単語一つで応答する。
「ほら・・・・・・一緒に選んでよ。ね?」
瑠月は少しつっかえながら春日部に言うと、少々の間を置いて春日部は戻ってくる。
そして、ジャケットの一つ、これまたジャズを取り出すと、
「これがいい」
春日部はそう言うと、驚きでその一連の動きについていけていない瑠月を振り返る。
「どうした」
聞かれた当人はようやく意識を取り戻したのか、
「いやいや、何でもないよっ。それより、これ良い曲入ってるんだ?じゃあこれにしようかなぁ」
明らかに動揺しながらそれを受け取る。というよりは奪い取る動作の方が近い。
そして、何も言わずにレジに持っていき会計を済ます。
「ありがとうございましたー」
やはり間延びした声の店員が頭を下げているのを背に、瑠月は店頭へ戻った。
そしてそこに、片手にビニール袋をぶら下げる春日部の姿があった。
少しの沈黙。と、それと同時に瑠月の頭に押し寄せる感情の波。
絶対に帰っちゃうと思ってたのに。
第一私を待つ理由なんて、何一つないはずなのに。
瑠月はジャケットの入っているビニール袋片手に、分岐点に立つ。
学校へ、春日部の家へ、街へ、三つを分断する道の中心点に、彼女は立っていた。
「ハル、今日はごめん」
先ほどは軽くかわされたが、今回はそうはいかない。
「というより、正直迷惑だったでしょ。今日転校してきたばかりで、それなのにこんなにうるさく話しかけてくる奴がいて」
瑠月は俯きながら言う。
「あのね。私、すんごい人見知りなの。家族とかそういった身近な人間としか気軽に接することができないの」
それなのに、と瑠月は続ける。
「ハルは違った。持っている空気って言ったらなんか変だけど、ハルに私と同じようなモノを感じたの。それで、ついつい・・・・・・」
その後も、瑠月の話は続いた。
今日の春日部との会話が、彼女にとって身近な人間とのを除いて、初めてのモノだったこと。
でも、なかなか話してくれなくてもう自分は嫌われてしまったのかと肩を落としかけたこと。
そして、春日部は冷たくて融通が利かないけど、大切な時にフォローを入れてくれること。
瑠月は思い思いに語り、春日部は向かいで黙っていた。
瑠月の最後の言葉が終わり、そして二人が黙る。
先に口を開いたのは、春日部だった。
「自分が話したい事は、相手の目を見て伝えるべきだと思う」
開口一番の言葉に、げ、きびしい、と瑠月はやや怯えたように身体を引く。
「でも、それを話した勇気は評価に値する」
瑠月は身体を引いたまま固まる。
春日部は一度口を閉じ、そしてゆっくりと開く。
「そして、僕とここまで話せた君もまた、評価に値する」
その口が閉じた直後、春日部は身体を翻してレコード屋を曲がって左に進む。
その歩調は一定で。
心拍のように鼓動を刻む。
そして瑠月は、来た道を再び行く。
明日はハルと話せるかな、などと頭に浮かべながら。
瑠月が持つビニール袋が大きく振り子運動を描く。