こうして、私は彼と出会った。
でも、この"出会った"という表現を彼は極端に嫌うし、私も彼の機嫌を損なうのは嫌だから使わない。
以前昔話のようにそう語ったら、一日中口をきいてもらえなかった。
それ以来私の禁句辞書の片隅にそれは記載されている。
このような自分と他人との交渉を、私は常時行っている。
人と話すとき、接するときはその代表例。
どう話せば相手は自分に興味を示さないか。
どう接すれば自分はこの状況を乗り切れるか。
そもそも、人と話したりするだけで危険な状況と判断する私がおかしいのだけれど、この人見知りばっかりは直らない。
だから、私は物心ついたときから極力人と接する機会を無くそうと努めてきた。
・・・・・・・なのに。
それなのに、あの日私は自分から席をたち、彼の前で手を振っていた。
その後の休み時間も、次の休み時間も、最終的には帰り道まで。
私はずっと、彼の傍にいた。
そして、それを私の居場所だと感じる自分がいた。
例え、それを否定する自分がいたとしても。
やっぱり多数決は前者の圧倒的勝利だった。
これって、依存、なのかな。
硬く閉じた瞼の裏を回想が走り抜けた後、その光景を目にした私は思う。
そして、砂埃の薄いベールの向こうに彼の姿が見えたとき、
軽い疑問に対する答えが出た。
あなたは 。
脳内の医者がそう診断する。
そして、彼は
Episode.2
そーっと、相手に気づかれないように隣を覗き込む。
感づくことはおろか、微動だにしない。
にしても、授業中ずっとこれなのはおかしい。
開始時間から三十分が経過した今も、春日部の目は虚空を見つめている。
前で話す老先生はその事に気づいているのかいないのか、自分の孫の話に夢中になっている。
瑠月は、それが春日部の意志で行われているとも知らず、真面目に体調の心配をしていた。
春日部 涼が転校してきて早一ヶ月。
勉強では態度は滅茶苦茶ながら成績は優秀。スポーツも上出来。
人当たりは兎も角、他を見ればクラスの人気者となってもおかしくないのだが、
彼は自分が望むでもないのに、クラス内で伝説と化していた。
まず、瑠月は殆ど誰とも接しようとしない、というコトは周知の事実であるため、
"どのようにして瑠月 光と気軽に接することが出来るようになったのか。"
これに関しては、学校の七不思議にも数えられそうな勢いで大きな謎に成りつつあった。
そのためクラス内でもそれを解き明かそうと、幾人もの勇者が試みたが、
「なぁ、春日部。どうして瑠月と仲が良いんだ?」
「いいのか?」
「あぁ、少なくとも悪くは見えないぞ」
「そうか」
「うん、・・・・・・あ、え?」
全てが最初の問いに満足な結果を得られないまま逃げられている。
本人は全くその自覚はないのだが。
ところが、クラスの連中は、こんな事ごときで降参してたまるかっ、と妙にやる気を出し、
片方は何やってるんだろう、と不思議そうに見つめ、もう一方は興味無さそうに明後日の方向を向いている当人達の前で、謎の解明を誓い合っていた。
その後連中が考えた方法はこうだった。
春日部が無理なら瑠月を攻めろ!
が、これは一人が瑠月に話しかけた途端、彼女は身体を痙攣させながらジリジリと後退し始め、終には気絶しかけたのであえなく没。
次は、とクラスの頭脳が結集して長時間かかって出された解は、ほっとけ、だった。
大体、解明の対象となるのは二人で、その内一人は質問をかわすのが上手すぎ、他方は質問はおろか話すのさえ論外。
しかも、気絶されかけたと来ると、さすがにクラスの連中の意志も折れたようだった。
今も時々、春日部に探りを入れてくる者もいるが例外なく惨敗。
最終的にその謎は"七不思議"の八個目として数えられた。
そのような成り行きを七不思議の八番目は露ほどにも知らず、毎日を平凡に暮らしていた。
いや、"瑠月提案でレコードをフリスビーにして遊んだり"、"瑠月提案で夜の病院の廃墟でジャズを響かせてみたり"と実は平凡とは程遠い事を行っていたりもしたのだが、主催者瑠月の傍観者春日部という立場は崩れず、いつでも実行犯は瑠月だった。
だが瑠月は、ひどい人見知り、という事もあって基本的に気が弱く、上の遊びも"二人の距離は手が届くくらい"、"音量は最小"と控えめに行ったので結果的に生活には何の支障も出なかった。
それは、極めて平和で。
山を下る激流のように時は流れた。
やがて、その川は海に流れ込む。
事件が起きたのは、春日部が来て五ヶ月程経った寒い季節。
大陸から吹き寄せる冬の息吹が、屋外はおろか室内の空気すらも乾燥させる。
学校でも大抵の生徒が制服であるブレザーの下にセーターもしくはカーディガンを着込み、寒さを凌いでいた。
当然、春日部や瑠月も着服している。
この学校には席替えという文字通り席を替える行事が無く、そのため夏は涼しくて良かった窓際の席は、
「・・・・・・寒い」
春日部が思わず口にしてしまう程に、惨憺(さんたん)たる気温となっていた。
「大丈夫・・・・・・うぅっ」
此方も席のかわらぬ瑠月は、人の事を心配しておきながら寒さのあまりに唸っていた。
今は二時間目終了後の休み時間。
十分程の休憩時間のはずだが、彼らは一時間ほどの雪山遭難のように感じていた。
「図書室」
徐(おもむろ)に春日部が口を開き、立ち上がる。
瑠月は頷きながら、春日部と同刻に席を立った。
確か、図書室にはボイラーがたいてあったっけ。
と、図書室という単語から五ヶ月程前のある日を思い出した。
それは懐かしさと共に感動に似た何かを連れて、瑠月の胸をぐっと内側から押す。
「あの時は何も言ってくれなかったけど、今回は話してくれた」
瑠月は先を進む春日部の背中に小さく呟く。
そのまま歩きながら、ハルも優しくなったのかなぁ、とか考えていると、前の春日部が急に立ち止まった。
そして振り向く。
「あ、え、何か気に障るようなコト言ったっけ・・・・・・」
声が自然と萎んでいく。
春日部が此方を睨んでくる。否、普通に見ているだけ。
なのに・・・・・・。
瑠月は未だにあの視線に慣れていなかった。
前触れなく彼は告げる。
「あの時君は僕の事を酷い、と言った。だから場所を告げた」
自分の頭にだけ響いてくるような感覚に陥る、その言葉。
瑠月は一瞬呆然と立ち尽くし、やがて強く頭を振る。
「早く図書室に行こうよ、ハル」
微かに頷くような仕草を見せると、春日部は何事も無かったように行く先に歩を進めだす。
瑠月は自分の身体をぐっと抱きしめて、僅かでも寒さを押し殺そうと試みる。
その視線の先で、少しずつ遠ざかっていく春日部の背中が急に大きく見えた。
今朝見たニュースは、まだまだ気温は下がるといっていた。
ふと外を見ると、廊下の窓ガラスが屋外との接触を断つように白濁色に曇っている。
吐いた溜息は白く、やがて空気に溶けた。
第一図書室。
広さ、規模、蔵書共に区内最大級。
この校内で最も大きい第三校舎の二階をほぼ全て使っている。が最近はそれだけでは収まらず一階の半分ほども本の収容所として利用されるようになっていた。
このように、蔵書の増加が急激になったのはつい最近の事で、議会推薦図書の多大な入荷や最近引っ越してきた資産家の寄付があったりと様々な背景があるのだが、主因は"古書を求める生徒達"だろう。
ただ、一口に生徒達が歴史に興味を持ち始めたのかと言えば誤解も甚だしく、そのリクエストを発しているのはかなり一部の生徒だけである。その頻繁な発注に学校側も少なからず眉根を顰めているのだが、それを中止させることは無かった。
理由は簡単で、先程の資産家の寄付による予算の増加と、古書が学校指導内容に反しているかといえばむしろ従順に従っているくらいであり、止める理由が見つからないからである。
だが、一階にあり圧迫を受けつつある理科室や美術室を使う部活動の生徒や、一部の先生からの批判も無視することが出来ず、結果的に現在の状態で均衡を保っているわけである。
そして、そのような状況を作り出した生徒があの二人である。
「正しく。これは八百年程前に我雲妙寺僧が記した伝記だよ。この地方にまつわる郷土話や、伝説等が書かれてるの。あー、ほら。駅前の方にある霊前明寺の前身がこの我雲妙寺なんだよ」
二階にあるとある本棚の一角で、春日部が古い書物を抱えて座っていた。その場で読めるようにと設置された椅子に、である。
そして、その脇には自慢気に人差し指を立てながら説明をする瑠月。
実はこの説明も全く求められてないもので、春日部は存在を無視して書物を読み進める。
「そして、この我雲妙寺僧は十二年後、当時この地で流行った伝染病にかかって亡くなっちゃったの」
どこで読んだのか知れない情報を披露しながら、瑠月は周りを見た。
背丈よりずっと高い本棚に囲まれた自分たちの周りに数人ながら生徒の姿がある。
どうやら、昼休みはまだ終わってないみたい。
三時間目の極寒地での授業を終えた春日部と瑠月は、買ってきた昼飯を持参して再び図書室に走った。
目的は一割食事、二割読書、七割暖かいところへ非難。
が、図書室と聞くと、何だか飲食物一切持ち込み禁止的なイメージが浮かんでしまう。
しかし、当然の事ながらこの学校は少し違う。
でなければ述べる必要がない。
この学校では大きく図書室と言っても、第一第二に分かれ、さらに第一の中でも食事室、展示室、読書室、検索室、事務室と用途によって分けられた部屋があり、さらにその部屋も第一第二第三と複数あるものが殆どである。
そして、先程の例示した食事室というのが休憩時間を過ごす場として利用することが出来、その部屋名の通り食事をする事も可能であるために、飲食物の持ち込みもその部屋のみ許可されているのである。
だが、実はこの部屋、食事を取るのだったら教室で良いし、休憩を取らなくてはいけなくなるほど本を読む生徒が少ないので使用頻度はかなり低く、部屋の中でも珍しく第一までしかない。だが、それでも他の部屋に取って代わることが無いのは去年の夏に起きた"知恵熱事件"があったからに他ならない。
当時とても読書好きな女子がおり、その子は毎日のように図書室に通い詰め、結果として頭に情報が入りすぎた。処理が間に合わない脳がヒートし、幸い大事には至らなかったものの、その一日間ずっと意識が飛んでいて、しかもその時の記憶は抜けていたらしい。
その惨事を聞いたPTAや先生、保護者からの指摘を元に、このような部屋が作られた訳なのだが。
そんな事情を一切知らない当時こちらに転校してなかった春日部と、実はその事件の当人だったりする瑠月はそんな事情を全く知らなかったり、覚えて無かったりで、
「よかったぁ、こんな都合の良い部屋があって」
春日部は無言で頷きながら、ミルクフランスを口に運ぶ。が、硬くてちぎれず少しの間奮闘する。
やっとこさ辿り着いた食事室で、暢気にそんなやり取りをしていた。
「ねぇ、ハル」
隣の椅子で書物を睨み続ける春日部に、瑠月は声をかける。
少しの間の後、鬱陶しそうな表情で春日部は振り向いた。
「ハルは、海好き?」
「嫌い」
即答する春日部に瑠月は苦笑を浮かべつつも、
「どうして?」
理由を尋ねる。
春日部は視線を手元に戻しながら、脳内で反芻する記憶を呼び起こす。
「兄さんが海を好きだから」
春日部がぽつりと呟いた台詞は、まるで手が滑って落としてしまった花瓶のように。
空間に広がって、やがて大きな音と共に砕け散る。
瑠月は怪訝そうな表情を浮かべて、その手が持つ本をぐっと強く握った。表紙のシロイルカの写真が僅かに皺を帯びる。
そうしていれば花瓶が元に戻って、傷一つ無く元通りになると心に祈って。
でも、覆水盆に返らず。
「僕は兄さんが嫌いだ」
春日部は続けた。切々とした独白を、静かな、無機質な声で。
身内が嫌い。
その事実が出来上がるという事はかなり珍しい。
条件があまり数が無い上に、複雑で、さらにそれが適合する事が稀であるからである。
第一に、その身内の行為、性格、言動、その他身内自身の行動、性質によって起きた負の感情。
その条件の上に、その負の感情が身内という強い絆を越えてまだ有り余るものであること。
さらに言えば、それが簡単に引っくり返るような物ではなく、確固たる決意、もしくは感情、意志で固められていること。
そのため、身内にそのような感情を抱く者は大抵嫌悪感を表立って出すか、もしくは押し殺すようにして話す。
だが、彼は。
声に感情を載せるどころか、その裏に感情を隠すどころか、
その"感情"がどこにも無かった。
無感情、をそのまま表したかのようなその"音"。
瑠月は無言で、耳に入ってくるその音を聴いた。
それに理由を求めることはしなかった。
なぜなら―…
彼の声に含まれていたのは、感情と一括りに表すことのできない、
何か。
瑠月はそれを感じた。
感じられたから。
瑠月は問わない、否、問えなかった。
刹那、彼の心の奥深く、そこに踏み込む行為に計り知れない畏怖を覚えた。
そして、休みの終焉を告げるチャイムが鳴る。