あぁ、なんて綺麗な海なんだろう。
底まで透き通って見えそうな程、蒼い。
広大で、永遠で、限りない包容力を持つ、"地球の生命"の代名詞。
なんて適切な表現なのだろう。
最初に生命を生み出し、それを維持させ、進化させた。
地球の生命の基にして、偉大なる"母"なんだよ。
そう思うだろ、涼。
だから、正解は海だ。
でも、誰にでも愛されているの?海って。
うーん、表面上は嫌っている人は多いかも。泳げないだとか、津波で身内を亡くしただとか、クラゲが気持ち悪いだとか。
じゃあ、僕も嫌いだな。泳げないし、サメとか怖いもん。
あはは、でも見る分には好きだろう?
そうかも。綺麗だもんね、海は。
だろう?皆、誰にしろ心の何処かでは、綺麗だなとか、すごいなとか、何かしらの正の感情を持ってるんだよ。
ふぅん。でもお兄ちゃん、そんな問題難しくて分からないよ。もっと簡単なのにしてよ。
嫌だねー。お兄ちゃんの問題を解けなかったらこの飴はお兄ちゃんの物って、約束したでしょ?
うわー、意地悪。お兄ちゃん、頭良いからってそういうの卑怯だよ。
あ、レモン味だ。おいしい。
あー!食べちゃった。ひどいよー!
嘘だよ。ほら、あげる。
え、お兄ちゃん口に入れてたのに。
入れた振り。ほら、あーん。何も無いでしょ?
ほんとだ、お兄ちゃんすごい。ありがと!
どういたしまして、と。じゃあ、それを舐め終わったら海にいこっか。
うん!
"世界で一番愛されているお母さんは誰でしょう?"
"うーん。うちのお母さん?…じゃあ、マリア様?・・・えー、分からないよお兄ちゃん。答えは?"
Episode.3
彼らの下校通路の大部分を占める長く続く一本道。
その突き当たりに展開しているこじんまりとしたレコード屋の手前に、小さなベンチはあった。
大部分のペンキは剥げ、残る青いペンキも大分色が落ちている。
お世辞にも積極的に座りたいとは思えない。
そんな使用頻度が皆無に等しそうなそれに間隔を空けて佇む、二つの人影。
片方はもう一方より頭一つ分低く、少々小柄な体型をしている。
もう一方も身長と体型が少しサイズが大きいだけの違い。
彼らの後ろに伸びる影は橙の地面に薄く、長い。
長い間何をする事も無く座っていた二人だったが、やがて小柄な方が右脇の小さな鞄をゴソゴソと漁り、中から一冊の雑誌を取り出した。
少し皺の入った、シロイルカの写真が表紙一面を飾っている。題名はゴシック文字で大きく、"水族館特集"。
じっとシロイルカと睨み合った後、よし、と気合を入れた小柄な少女、瑠月はさっと隣に振り向く。
視線の先には春日部の横顔。何を思案中か、その目が遠い。
その表情を見た途端、瑠月の脳裏に今日の昼休みの出来事が回想される。
"ハルって海好き? ―…嫌い。"
返ってきたのは、自分が望んでいたのと対極の言葉。
内心落胆していた自分に追い討ちをかけるように春日部の言葉は続いた。
それは、兄が嫌いだ、という無機質な声で。
だからこそ、軽い決意は直ぐに揺らいでしまった。
瑠月の目に沈鬱な情が僅かに顔を出す。
と、雑誌を持って固まってしまった瑠月を流石に不審に思ったのだろう。
春日部が僅かに瑠月の方を覗き込んでいた。
その様子を横目に認識した瑠月は、
「わっ、え、っとー…何?」
滅茶苦茶にあたふたした後、ようやく落ち着いたように尋ねる。
春日部はその問いに僅かに眉根に皺を寄せ、
「どうした」
一言聞き返す。
瑠月は春日部の不機嫌そうな顔に軽く首を傾げていたが、その声にようやく合点が言ったように現実に戻る。
確かに自分が"何"だ。ぼーっとしている瑠月を不自然に思うのは当然なのに。
…ん?
何かが頭に引っ掛かる。
「いや、その…これ」
僅かな違和感を取り合えず置いといて、瑠月は控えめに雑誌を差し出した。
「…水族館?」
雑誌は今月号の水族館情報誌だった。今時、こんなに売れそうに無い雑誌も珍しい。
春日部は受け取った雑誌を捲ると、横から説明が入った。
要求していない。
「ここ、うちの学校のすぐ側なんだよ!結構大きい所なんだけど。でね、ここに、そうそこ。そこに書いてあるんだけど、シロイルカがいるんだって。あ、でも…いるのは明日までらしいんだけど」
何なんだ、と春日部は先程の表情を崩さない。
さっきは悲嘆にくれてたのに、今度は興奮して近所の水族館のアピール。
正直この高低差にはついていけない。
「で、何なんだ?」
声に出してから、それに嫌悪が滲み出ているのに気づく。
「え、えっと…、その、ここに行かない?」
しどろもどろになりながら瑠月は俯く。その状態でそっと春日部の様子を確認する。
表情は変わっていなかった。自然と上目遣いになっていた瑠月は慌てて付け加える。
「そ、それに、明日までしかシロイルカが…」
「いいよ」
一言。
それは承諾の言葉で。
固まっている瑠月の横で、春日部は静かに立ち上がる。
粛然と立ち去るその背中を視界に入れながら、瑠月は思う。
少し、ほんの少しだけでいいから、ハルに笑って欲しい。
刻一刻と過ぎていく時。
ベンチに座る彼女を包む橙は徐々にその濃さを増し、やがて暗色になる。
沈んだ太陽に替わって顔を出した青白い月は数多の星と共に、見上げる彼女の顔を優しく撫でた。
土曜日。
一般的な知識から言えば、その日は金曜日の次に訪れる曜日で、次の日は皆の休日、日曜日となる。
土曜日は以前、登校日とされていたが最近のゆとり的社会風潮から大部分の公共企業、当然学校も含む、で休日とされた。
結果、街を歩く人の数も自然と増加し、その中の学生の姿もそれに比例して多くなったのだが。
瑠月や春日部が通う中学は、その風潮に流されるどころか、寧ろ以前より"ゆとり"が無くなっている。
例えば、土曜日はもちろんのこと、絶対的な休日の日曜日すらも補講、特別講義、進学相談等に使われるようになったり。
例えば、午前の授業の後、教育委員会が知れば社会問題に成りかねないような顧問主催の地獄の部活動があったり。
例えば、その休日の"有効活用"により平日のスケジュールに生徒達の休憩時間となる進路相談等、総合、学級活動は皆無、授業が隙間無く続いたり。
とどのつまり、彼らに限ってはそのゆとり風潮は憎悪の対象となるべき存在になった。
が、そんな学校の強行に振り回されない例外もいる事にはいた。が、例を挙げるとなるとその指は二本で止まる。
春日部 涼。進路は既に私立の推薦を秋頃に取得。自覚は無いが世間の言うところの天才のため、補講はおろか特別講義もいらない。部活も所属してないため、土日は学校に来る必要性がなかった。
瑠月 光。春日部同様、進路は私立の推薦で決定。こちらは天才ではないが、大量の読書によって得た知識は半端な物ではない。つまり、自覚の無い秀才だった。部活動は自身の極度の人見知りがあるため、入ろうという意思すら持たない。結果、学校に用は無かった。
翌日、つまり土曜日、そんなこんなで彼らは今、水族館にいる。
"レインボー水族館"。
何処にでもありそうで、実は珍しかったりする名前を持つ、学校近隣の水族館。珍しい理由は簡単、名前単純過ぎ。
施設の概要は主に本館とその周りに細かく点在する別館、それを軽々と囲んでいる広大な敷地。
虹の七色で描かれた円球状のドーム、それが本館の屋根であり、この水族館のシンボルであり、名前の由来であったりする。
そんな派手な本館には、主に大型の魚の展示、入り口付近に売店、子供対象のクイズコーナーが設置されている。
但し、そのクイズ、その難易度を侮ってはならず、十問形式の問題内半数正解した者は設立十年を迎えたこの水族館で、僅か三人。内二人が農林水産省の親を持つ子である。
別館には熱帯、温帯、寒帯、極地、深海、浅海などの生息地別の分け方がされている魚がそれぞれ振り分けられ、一ヶ所にそれぞれ三種類が振り分けられ、計五館。それとは別にもう二つ、イベントショー等の場所として設置されていた。
そこで開催されているのが噂のシロイルカショー。
雑誌の表紙絵に取り上げられるほどの人気を博している本水族館の目玉も、今日で他の水族館へ移ってしまうらしい。
しかし、そんな移転の知らせもあまり人に知られていないらしく、普段の休日並みの人の多さだった。
目立つ本館に向かう者が主流だが、別館や最初にシロイルカを見に行く者もちらほら見かける。
彼らもそんな少数派の一派だった。
しかし、彼らの場合は別館やシロイルカが目的ではなく、チケット売り場が向かう先。
本館への流れに割り込んで、ようやく対岸に出る。
チケットの売り場は本館の左辺奥。彼らの待ち合わせが昼中盤だった事から並ぶ人数はそれほどでもなかった。
「それじゃ、並ぼうか」
瑠月は後ろに付く春日部を見ると、彼は黒コートに手を突っ込み、チケットを取り出した。
「もう買った」
彼の一言は僅かに瑠月を気まずくさせる。
瑠月は今日の待ち合わせ時刻に大幅に遅れてしまったのだ。主因は割引券の付いた先日の雑誌の行方を追っていたため。
そして多分、春日部がチケットを買ったのは待ってても来なかったから。
「へ…?あ、あぁ。でも割引券があったのに」
春日部の気配りから来る嬉しさと金額の面からくる悔いが正面激突し、嬉しさが表立つ。つまり顔が綻んだ。
そしてチケットを受け取ろうと瑠月は春日部の持つチケットをじっと見て、
何故か一枚しか無いことに気づき。
落胆の大波が来た。
なんかこう…優しくなったなぁとかそういう嬉しさを一気に吹き飛ばすような突風を連れて、波は瑠月の心の堤防を打ち砕く。
「はぅ…。並んできます、割引券使って買います、そうすれば千円が二百円も割引になる、財政的にも僅かなる余裕が生まれ今月の生活もより豊かなものになるもんねあはは」
人間が精神的に崩壊してしまうとこういう風になりますの、見本。
そんな代表例はふらふらと覚束ない足取りで少し先のチケット売り場の列に向かう。
しかし壊した当人はそんな事には目もくれず、
先程彼らが通ってきた本館入り口へ蛇行する列を睨みつけていた。
観察や、関心や、そういった類の好奇心からくる視線ではなく。
あからさまな敵意の篭った視線は、その先に一人の男を捉えていた。
「…久し振りだ」
彼が呟いた台詞に、長い間をおいて後ろから返答が返ってくる。
「いやぁ、本当に久し振りだ。この水族館」
無理矢理気を持ち直したらしい瑠月だった。
手には先ほどのお釣り、二百円が僅かにきつく握られている。
「それじゃーどこ行く…ってあぁっ!」
急に手首を引っ張られた瑠月はその先を兵隊のように突き進む春日部に怪訝そうな表情を向ける。
「え、えっと本館に行く…うげぇ」
人波にぶつかった。本館へ入る人達の長蛇の列だ。
無抵抗にぶつかる人達に瑠月はすいませんすいませんと細かく謝罪を繰り返し、その犯人に向けて一言。
「どこ行くの?」
その言葉は決してやめろ、といった類のモノではなかった。
結局、兵が進軍を止めたのは本館の関係者出入り口通路の前だった。
丁度、チケット売り場から本館を挟んで正反対にあるその扉は、本館のカラフルな色に合わせて七色中五色を使って色付けがされている。
そこが扉だと分かるための手がかりは小さな銀色のノブと扉と壁の僅かな隙間、そして関係者以外立ち入り禁止、と書かれたプラスティックの小さな白テンプレートしかない。
イメージを崩さない為にか相当細かくカモフラージュされたその扉の前で、春日部は瑠月の手首を離してようやく立ち止まった。
瑠月は春日部の横顔を、きつく握られていた手首を擦りながら窺う。
その鋭い目は扉の向こうまで突き通すように細めていた。
表情に浮かぶ感情は皆無で、彼の声色、無機質なあの声を感情化したよう。
何があるんだろう。
あの、視線の先に。
憎きものを射るようなあの扉の向こうに。
が、瑠月の思案はそう長くは続かなかった。
「瑠月、ここにいろ」
その声は、普段のあの無機質な声ではなかった。
春日部の心奥深くに眠る、憎悪の獅子がその眼を開いた。
ゆっくりと。
そして、声に混ざるようにして吼える。
「…兄さん」
普段閉まっているはずの扉が、その錠を上げていた。
扉を滑るように開けた春日部は、その奥の漆黒へ吸い込まれていく。
全容が掴めない程、深く、濃く、暗い。その深部。
その扉が音を立てずに閉まりきる寸前、それが止まった。
閉まったら、もう会えないような気がした。
だから、私は手を伸ばしていた。
その奥に覗く、漆黒に。
ハルの言葉の呪縛が脳裏に蠢くのを感じながら。
それでも、天秤は片一方に傾く。
日光は未だ高く、そして扉はその光を遮り、内側に暗闇をもたらした。