冷静に考えれば、それは尚馬鹿な行為に思えて。
それが一時的な興奮から来る、突発的な衝動だとは分かっていて。
間を置いて静かに頭を整理すれば、混乱は解けるのだと知っていて。
それなのに止まらなかった。止められなかった。
静止していれば、心が鼓動を速める。
考えていれば、脳がその行為を否定するかのように痛む。
気づいた。
自分が抱えるこの感情が、憎しみではなく、怒りであること。
そして、それが自分では抑えられないことに。
そんなにも激しい憤りの出所が、自分の行為ではないことに。
幼い頃はただ無邪気に笑っていた。
小学校入学頃にはもう表情の作り方を覚えていた。
低学年はそれでもまだ本当の表情があった。
でも、高学年に入り、年を重ねる度にその表情は徐々に消えていった。
中学。
各地を転々と移動するようになったこの頃。
人の表情を、僕は失った。
入った中学での生活期間は長短様々だったが、その地での友人はおろか、知人ですら片手で足りた。
自分が楽しい中学生活を期待していたわけではないが、その頻繁な移転は心身共に負担がかかった。
いつも新しい環境に放り投げられ、ようやく馴染んだかと思えばまた移動。
回数を増すごとに、自分の心の壁を築く事を覚えた。
その移転の成因は、六歳上の兄の存在だった。
彼は簡単にいえば、天才。
学校の成績は頂点を独走、部活は剣道部で大会には出なかったもののその腕はここら一帯の道場師範を軽く上回り、ルックスも良いし、性格も同様。
しかし、天才という簡略は正確ではない。
なぜなら、彼は"鬼才"であって、"人間の中で争うような器ではなかった"から。
彼は何もかもを超越していた。
文武心身その他諸々。彼が他者に劣っているのを見たことが無かった。
それ故に。
彼が高校を卒業後選んだ道は、犯罪者だった。
こんな話を聞いた事があるだろうか。
大抵の天才はその才能を向ける先に二つの道を選ぶ。世の理を追求する"研究者"と、世の理を犯す"犯罪者"。
しかし、彼はその道の一つを自らの才で潰していた。
彼は世の理すらも理解していた。
犯罪者というのは、至極平坦な捉え方をすれば"平和を乱す"者である。
それは、法が平安を維持するために制定されたものという定義の下成り立っているから。
だから、彼はその定義を完全に払拭した。
彼の犯罪は、"その行為によって平和をもたらす"、つまり何の実害もなく寧ろ利を招く、ただ法を破っていると、それだけの行為。
実に、皮肉な行為だった。正義である筈の法を破り、そこから生まれる結果が"正義"なのだから。
でも、そのような犯罪でも追う者はいて、当然それは警察で。
父が兄の担当刑事だった。
普通、身内を担当には付けないのだが、兄は場合が違う。より詳しく相手の動向や考えが分かりそうな者を選ぼうとした結果、父が当てはまった。父も自分の息子の犯罪行為には相当頭を悩ませていたので、その命令には素直に従った。
ここまで言えば分かるだろうか。
幾ら兄が鬼才だとはいえ、一ヶ所に長期間留まる事は流石に難しい。つまりは、兄は一定期間の滞在、転居、再び滞在を繰り返した。
そのため、彼の確かな移動情報が入った時点で父もそれを追跡するように家を引っ越した。
幾度も、幾度も。
それでも、彼が一向に捕まる気配はなかった。
しかし、兄の動向につい最近変化があった。
移転を繰り返していた彼が一ヶ所に半年近く留まっているのだ。
それが、この街。
理由は知れず、今までの滞在期間中は何も事件を起こしていない。
警察はその間に軽く気を抜き、父も不思議には感じていたものの、その理由に辿り着くことはなかった。
そこに、災いの予兆を感じ取った者は誰一人いなかった。
Episode.4
闇。
国語辞典で引くと、その言葉の意は"明かりが無くて暗い場所"だとか"人目につかない場所"といった記載となっている。
それは、確かに合っているのだろう。
本当にそれを感じた事のない者にとっての感覚としては―…
扉の内はひどく寒かった。
咄嗟に扉の隙間に入れた指先はひんやりと冷たく、その後に滑り込ませた身体には無意識に鳥肌が立った。
それは、寒さ半分恐怖半分の凍るような感覚。
でも、当然なのかもしれない。
誰だって、目の前が、いや、何も見えないその状況に恐れを抱かない者がいるとは思えないから。
背中の方で僅かに開く扉からの光の供給が途絶えた瞬間、闇が訪れた。
冷たかった。
元の寒さとは違う"畏れ(さむさ)"。
心の奥底から、人が無意識の内に閉ざしている封印された心の間から、負を全て引き出されたような。
背筋を瞬時に震えが走る。
叫びたくなった。
恐怖を声にして、助けを求めて。
それなのに、震える口から出た言葉は、
「…ハル、どこ?」
それは助けて欲しかったわけじゃなくて。ただ場所の提示を求めていたわけじゃなくて。
完成したパズルから一ピースが欠けてしまったような、寂寥の感覚。
視界を埋め尽くす"黒"の中に、その姿を求めるようにただ見つめる。
目の前に翳した手の平が見えないこの闇の中で、見えるわけが無いのは理解しているのに。
それでも、眼を凝らして、その先を見つめる。
刹那。
光の長方形が闇を切り取ったように現れる。
その横幅は、徐々に小さくなって行き、
それが何なのか、判断をする前に飛びついていた。
先に見える、光に手を染めた。
それは、突き当りの扉の隙間で。
そして、その先に失った欠片が光っていて。
瑠月は、闇に勝った気がした。
そこに広がる部屋。
先程の闇とは違い、天井から光が溢れている。
広い展示室らしきその部屋には、魚の説明板が壁に、柱に、と沢山張られていた。
中に居る客は休日にしては少数。両手に足りるほどしかいない。
そして、春日部と瑠月。
出てきた関係者用扉の前で静かに立っていた。
周りの人はその出来事に気づいてないらしい。目もくれずに彼らの前を通り過ぎる。
「ハル、なんで…―」
瑠月が黙然と立ち尽くす春日部に問う。
「なんで、勝手にどっかに行こうとするわけっ?…折角優しくなってきたって喜んで。笑顔にしてあげたいからって水族館に誘って。全部私のわがままだし、それに全部応えてなんて言わない」
最初、瑠月は叫ぶように喋り、しかしその声はデクレシェンドの様に小さく消えていく。
春日部はその背で全てを受け止めるかのように立っていた。
「…でもハルは、私の…」
瑠月は細々と、霞のような声で呟いた。
今まで瑠月は、近付いてきた誰もに恐れ、拒否し、避けていた。
それは、自身の心の弱さから来る、逃避。
でも春日部は大丈夫だと、なぜかそう思った。理由は分からないし、それを裏付ける理論も無い。なのに瑠月は自ら近付いていった。
予想通り平気だった。それどころか、春日部と話す時は何時も張り詰めていた神経の糸がゆとりを持つように緩んだ。
徐々に春日部の堅い部分の角が丸まっていくように感じ、それを嬉しく思っていた。
鬱陶しそうな顔をする時も、その奥に自分への気遣いがあるような気がした。
あのベンチの時もそう、春日部は心配してくれた。
…なのに。
「また、元通り」
思い詰めたように瑠月は俯く。
「…瑠月、シロイルカはイルカではない」
突如、春日部が喋り出す。
「え?」
「通常イルカと呼ばれているのも、全部イルカではない」
「でもイルカって呼んでるし、イルカはイルカだよ」
「イルカは鯨の一種。その内小型の生体の名称をイルカと付けているだけだ。大きなまとまりで言えば、全部鯨」
何が言いたいのか、瑠月はさっぱり分からなかった。
春日部は言葉を一度切ると、再び話す。
「僕は、人じゃない。人間ではあり、人類でもある。でも、人じゃない」
「嘘、ハルは人だよ?だって、話せるし、言葉も読めるし、考えられるし、心臓も動いてるし…」
「笑えない。僕は無理に笑うことも出来ない。意志に関係なく怒ることも出来ないし、悲しむこともできない」
感情が無い、と春日部は呟くように言った。
再び瑠月に背を向けたまま去る。
今度も、一言残して。
「兄さんが、いた」
そして、姿が展示室から無くなる。
後に残された瑠月は俯きながら、それでもそっと微笑んでいた。
何だかんだ言って、
ちゃんと私に教えてくれた。
結局、その日春日部は姿を見せなかった。
一方で、瑠月も彼を探そうとはしなかった。
週明け、春日部が教室に入ってきたのは最終授業時だった。
前の扉から堂々と入ってきた春日部は、皆に見られている中一言。
「家庭事情で遅れました」
その台詞に、興味はあるけど今までの事もあるしやっぱり聞けないよなぁ、と好奇心旺盛な視線が席に向かう春日部の背中を追う。
と、そこにパンパンと先生が手を叩いて視線を戻させると、
「授業、続けるぞ。瑠月、ページを教えてやれ」
実は教室に春日部が入って来たことにも気づかず惰眠を貪っていた瑠月は、その声にびくっと反応し、
最初、春日部がいるのに気づいて少し嬉しそうな表情を浮かべ、
次に、結局何があったのかと心配するような表情に変わり、
最後に、ページがどこかうたた寝をしていて分からないという事実に気づいて衝撃を受けた。
以上、二、三秒での出来事。
慌てふためいて隣の春日部に視線を送ると、彼は正しいページを開いて座っていた。
「さっき歩いてくる時に他の人のを見た」
その後、瑠月は逆に教えてもらい、残りの授業を受けた。
放課後、誰も居ない教室で瑠月はそっと隣に身体を向け、
「で?」
「…会えなかった」
数秒の会話。
一単語に一文節の対応。
「それは、残念?」
瑠月は、もう一つ重ねるように聞いた。
途端、春日部がその無表情な顔で黙り込む。
怠惰に時が流れる。
やがて、瑠月が口を開いた。
「私思うんだけど、ハルは人だよ」
春日部の表情は変化しない。
「人間でも、人類でも、生物学上の霊長類の人でもない。人間が小型の鯨をイルカと呼ぶのと同じ、ハルは人だよ」
それでも、動かなかった。
「だって、自分では気づいてないかもしれないけど…意外とハルって優しいもん」
僅かに、眉が震えた。
「人を気遣うことも出来るし、自分の抱えている悩みに苦悶する事もできる」
瑠月は続けた。
「大勢が小型の鯨をイルカと呼べば、それは"大勢"の中でイルカになる。一人が、小型の鯨は"コクジラ"だと言えば、その"一人"の中でコクジラになる。だから、誰もがハルを人間だと言っても、私の中でのハルは"人"だよ」
最後は震える声で。それでも瑠月は言葉を紡ぐ。
「ねぇ、ハルは私の友達だよ」
瑠月の"友達"という言葉。
それは、誰もを拒否していた彼女が心を許した相手。
"人"と"恐怖"が背中合わせである瑠月にとって、唯一"恐怖"になり得ない存在。
それが、瑠月にとっての友達。
「…僕は、分からない」
その視線の先は、最初出会った時と同じ、宙の一点を射ている。
そして、
「なんだ、ハルって」
瞬間、時の流れが塞き止められ。
春日部の口元が僅かに上がったような気がして。
それが、幻想だとは分かっていても瑠月はその夢をずっと見ていたかった。
友達の、笑顔を。