それは、偶然の邂逅だった。
否、完全な偶然ではない、意図的な部分もあるいはあっただろう。
それでも、それは世に答えが"真理"一つしかないのと同じように、たった一つの方法によって形となった際会だった。
灰色の、景色を背に―…
全ての輪郭がぼやけて見える。
いや、これはただ輪郭が無いものを僕が見ているだけ?
見るモノ全てが穢れ無き色で、僕は思わず目を覆いたくなる。
それらがまるで、自分を嘲笑うように見下ろしてるような気がして。
あのような決断をした僕を攻め立てるように。
あの時、彼女の表情に垣間見た、幽玄な哀しみ。
深い池に沈殿する泥のように僕の心を不快感で埋めていく。
いけなかったのだろうか。僕の判断は、僕の選択は。
分かっていた。
どんなに問い掛けても、それは沈黙でしか返って来ない。
その結果生まれるのは、不甲斐無さと遣る瀬無さ。
焼けそうな感情に胸を掻き毟り、その手が心まで届いてぐちゃぐちゃに混ぜっ返してくれればいい。
でも、
天の白壁は、それを許さずに僕を照らし続ける。
目に疲れを感じ、僕はゆっくりと瞳を閉じる。
徐々に狭まっていく瞼の隙間から射し込む白光が一瞬翳ったような気がして、
でも、それを確認する前に意識が休む事を選んだようだ。
完全な黒幕が視界を包んだ。
瞼を閉じれば、そこは黒い世界。
瞼を開ければ、そこは白い世界。
その前に居たのは、灰色の世界。
崩れ落ちる灰色は、二つの色を生んだ。
Episode.5
大事の進展は、いつも急だ。
それは神様の悪戯かもしれないし、単なる偶然であるかもしれない。
その正体が何にしろ、その事実が覆ることは無い。
決して変わることの無い、"絶対"の事実。
どう足掻いても、どう転んでも、変形することの無い鋼鉄の塊。
人間は、なんて無力なんだろう。
神様に逆らう事はできないし、何か一つの出来事を覆すことも出来ない。
時間を遡る事もできないし、同じ人間同士の意思疎通すらままならない。
それは"絶対"に分類される事実。
分かっていた。
それなのに、どうしてだろう。
人間、ではなく、人、でなら…―
心の片隅に、そんな淡い希望を抱いてしまったのは。
水族館を訪れてから、およそ二ヶ月。
冬も終盤に差し掛かり、中学の連中の進路先も大体が決まり始めた頃。
彼らの街を一つの事件が騒がせた。
瑠月から無言で手渡された新聞を読み終わり、春日部は僅かに顔をしかめた。
「…これは」
その一面を飾る文字は、"天才犯罪者、久しく現る"。
新聞を受け取りながら、瑠月は頷く。
「ハルのお兄さん、でしょ?」
浮かべる表情は薄い不安。
それもその筈、全国的に有名な犯罪者"春日部 零(かすかべ れい)"が彼らの住む街に現れたのだ。
しかも彼女が零が涼の兄である事を知ったのは、約二ヶ月前のとある放課後。
彼の唐突な身の上話によってだった。
春日部は頷きながら、
「でも、兄さんは特定の悪人しか危害を与えない。だから、君達は心配ない」
淡々とした言葉の裏に潜む感情。
それを知っている瑠月は首を横に振る。
「ハルはなんでお兄さんを憎むの?犯罪者だから?それとも、転校の原因だから?」
列挙する言葉全てに春日部は否と答える。
「それは…―」
「おーっす、って何か私いけない事した?」
突如、彼の台詞を遮って降りかかる能天気な声。
瑠月が僅かに肩を震わせながら振り向く先に、一人の少女がいた。
朱崎 看(しゅざき みる)、薄く茶がかった髪を二つ分けにして結んでいる小柄な女子。快活な声とぱっちりとした目が特徴。
「あ、ミルミル」
「ミルミルいうなっ!んで、何よ二人とも。どうしてそんな深刻そうな表情をしてんの?」
パチパチと何度か瞬きをしながら、暗い表情をしている二人に問いかける。
瑠月が、無言で朱崎に新聞紙の一面を向けると、ほほうと合点承知した風に頷く。
「これが、何?」
その後、瑠月が綺麗にすっ転んだのは言うまでも無い。
ここ二ヶ月。
何事も無く平和な日々の中で、彼ら二人には大きな出来事があった。
瑠月の話す事ができるもう一人の存在の出現。
酷い人見知りの彼女が今までまともに話すことの出来たのは、身内と春日部だけ。
そこに、朱崎看が現れた。
彼女は最初から彼らと同じクラスで、以前の七不思議事件では首謀者の一人だったらしい。
それ以来も、瑠月や春日部に興味があり、ずっと話す機会を窺っていた。
そして、冬の学校恒例行事である"競歩大会"。
男子は持久走、女子は競歩、と種目が分かれるこの日。
そわそわと不安そうに周りを見渡す瑠月に声をかけたのが、この朱崎だった。
最初はビビリまくって、話すは愚か呼吸すらまともにできていなかった彼女だったが、その裏表のない性格や快活な声にだんだんと心を許していき、仕舞いには僅かにおどおどとするものの普通に話すことができるようになった。
以来、朱崎は春日部とも話すようになり、三人でいる事も多くなった。
最初は煩そうな表情を浮かべていた春日部も、静か過ぎた二人に活発な朱崎が入ったことで陽気が増し、その表情は消えていった。
また、朱崎はその旺盛な好奇心から春日部の情報も多々集めており、彼の兄が零だという事に気づいた数少ない人物の一人でもあった。
瑠月は朱崎を"ミルミル"と勝手に名づけ、朱崎はその幼稚なネーミングに反抗の意を示しているが、実のところ満更でもないようだ。
そんなこんなで、彼らは少し騒がしくなった。
だから…、と半ば呆れながら瑠月が朱崎に説明を始める。
「ハルはお兄さんが嫌いで、だからお兄さんが街に出てきたって事はハルにとって嫌な事なの」
子供に何かを諭す親のような口調で瑠月は言う。
「分かった?」
「いや、それは知ってるんだけど…。何でハルは兄貴が嫌いなんだ?」
その聞き返しに、ほぇと間抜けな声を出し、瑠月は春日部に振り向く。
「そうだった、それを聞いてたところだったんだ」
それまで横目に二人の会話を聞いていた春日部だったが、自分に質問の対象が戻ってきた事に気づいて視線を戻す。
「なんでハル…」
「今更何を。これまでもずっと呼ばれてきたハンドルネームを口にする人物がもう一人増えただけでしょ?」
今まで春日部を普通に呼んできた朱崎の意思変更に春日部が思わず突っ込み、即座に切り返される。
「で、何なのハル」
不満そうに黙り込んだ春日部に、瑠月も追及する。
その均衡状態は長い間続いた。
やがて、静まった三人の間に朝のチャイムが響く。
あ、席着かなきゃ、と瑠月は春日部の斜め前の席に戻る。
隣、ではなくなったものの結局大した変化は無い。しかも、
「何迷惑そうな顔してんのよ」
もっと騒々しいのが代わりに来た。
「さ、早く答えて」
隣に腰掛け、じぃっと迫ってくる朱崎。
いつ先生が入ってくるかとソワソワしながらも、さり気なく後ろに気を遣っている瑠月。
そして、二人を完璧に流しながら乾燥した晴れ空が広がる窓の外に視線をやる春日部。
妙な"三角関係"は、彼の一言で唐突に崩れ去る。
「あいつが、正真正銘の"人間"だから」
春日部の呟いた言葉は、ひどく脆くて。
と、途端ドアの開く音がした。
むむぅとわけが分からず唸る朱崎をおいて、瑠月は僅かに微笑を浮かべる。
「つまりは、ハルは正真正銘の人間ではない、ってことだよね」
呟いた一言は、朝の号令に掻き消された。
天才犯罪者、久しく現る
以前から全国各地で珍妙な事件を起こし、公務執行妨害罪等で手配されていた春日部零容疑者(19)が前日、●●県三國市某テーマパーク内で姿を数人に目撃された。本人との直接的な接触は皆無であったものの、目撃者の証言によると何かを探すような素振りを見せていたと言う。同県警は地元の各署との連携を強め、その防犯対策を強化する意向。
また調べでは、テーマパークでの目撃件数は現在二十件が上がっていることから、更に情報が聞き出せるのではないかと現地や付近での聞き取り調査の続行し、また、ここ一ヶ月近く同市の各所で似たような目撃証言が上がっていることから、ここ暫くは拠点を三國市付近に張るのではないかとの考えを示している。
放課後、三つの影が橙の光の中に伸びる。
「それにしても、ハルのお兄さんが丁度ここに来るなんて奇遇よね」
朱崎の滑舌のはっきりとした口調。二つ分けの短い栗色が首を傾げると同時に小さく揺れた。
「やっぱりハルに何か関係あるのかな…」
細く、沈むような声調は瑠月。その大きな目を軽く伏せ、心配そうに手元の記事を見ていた。
「…どうだろうな」
自分の事にも拘らず、外から静観しているかのような春日部の台詞。その視線は窓の外遠くを望んでいた。
三人の位置関係は普段と同じ。
元々席がほぼ隣り合った状況にある彼らに動く必要性は無かった。
「しかもここに居座るって…もう関係を否定することはできないよねぇ」
今まであんたのお兄さんが同じ所に長く留まっていた事は無いし、と自身の興味から様々な情報を手に入れている朱崎が続ける。
ふと、三人が黙り込む。
だとしたら、春日部零は春日部涼に何の用があるのか。
それは、彼に何かしらの害意があってのものなのか。
そして、――その後は。
長く続きそうな沈黙は思わぬ人物の声でその帳を開ける。
「考えても、しょうがない。どうせこちらに用があるのなら、何かしらの接触を図ってくる」
途切れ途切れのらしくない話し方。
自らの意見を言った春日部がふと外に向けていた目を閉じた。
その様子を少々拍子抜けした二人の少女が見つめる。
その後春日部は、随分の間その瞳を見せることは無かった。
果たしてそれは、静かに思案する様子であったのか。
もしくは、今見た物を否定する様子であったのか。
※
夜の屋外は、確かに冬なのだという事を自覚させるに十分な寒さだった。
大陸の冬将軍の息吹が内陸部にも届くほどに強くなったのだろう。
冬本番の寒さに、春日部はそっと自分の羽織るコートを前に手繰り寄せた。
傍の街灯の光が仄かに眩しい。
周りが暗ければ、微かな光ですらもその存在を際立たせる。
「…まるでアイツみたいだ」
春日部が自嘲気味に呟く。
息が、白かった。
彼はゆっくりと今いる公園のフェンスに寄りかかった。
小さな公園に見合わぬ大樹が中央に聳える。
そこは、住宅街の片隅の閉ざされた空間。
一本の街灯だけが、そこに仄かな明るさをもたらしている。
「なぁ、なぜなんだろうな」
闇はどこまでも吸い込みそうで。
「さぁ、なぜなんだろうな」
明かりはどこまでも吸い込まれそうで。
皮肉な事を、と彼は呟く。
「真理を得て尚、お前は疑問を口にするのか」
「それが僕の存在であるからね」
優しいようで、全てを見下すような口調。
二人の春日部は、小さな公園で、僅かな時間。
それでも闇は静かにその重さを増していき、微かな抵抗を示す街灯の光を押しつぶしていく。
※